
今回は、日蓮聖人のお手紙『妙一尼御前御返事(みょういちあまごぜんごへんじ)』というお手紙についてお話していきたいと思います。
≪信心≫といわれると、目に見えるモノではないので、ピンと来ないかもしれません。
一体、どういうものでしょうか?
前回、日蓮聖人のお手紙『佐渡御勘気鈔(さどごかんきしょう)』というお手紙を読み、決断するとき≪どう覚悟していくか≫についてお話させていただきました。
[kanren postid="1018"]さて、今回は≪信心とはどういったものなのか≫についてです。
法徳寺の朝のおつとめの際に、お経を読んで、日蓮聖人のお手紙をお読みしております。
毎月≪6日≫にお読みしている日蓮聖人のお手紙。
それが今回、紹介させていただく『妙一尼御前御返事』です。
このお手紙は、日蓮宗のお寺でよく拝読されておりますので、日蓮宗のお寺にお参りされている方は、よく耳にするかもしれません。
妙一尼さんという方が、どういう性格の方だったかは、よく分かっておりませんが、鎌倉方面にお住まいで、夫を早くから亡くされた方と想像します。
言葉では表しにくいですが、このお手紙から人生体験が語られているようです。
『妙一尼御前御返事』の原文と【意訳】

妙一尼御前御返事にいわく
夫(そ)れ、信心と申すは別にこれなく候(そうろう)。
妻のおとこ(夫)をおしむがごとく、おとこの妻に命をすつるがごとくに、親の子をすてざるがごとく、子の母にはなれざるがごとくに、法華経・釈迦・多宝・十方の諸仏善神等に信を入れ奉りて、南無妙法蓮華経と唱えたてまつるを信心とは申し候なり。
(弘安3年 身延にて 御年59歳 昭和定本遺文1749ページ)
POINT妙一尼御前御返事【意訳】
信心というものは別なことではない。
妻が夫を恋しく思って思いきれないように、夫が妻のためには生命を捨てるように、親が子どもを愛しく思って絶対に捨てることがないように、子どもが母を恋しく思って離れることがないように、法華経・お釈迦さま・多宝如来・十方の仏さま、そして菩薩・諸天善神に信を打ちこみまいらせて、南無妙法蓮華経とお唱え申しあげるのが信心ということなのである。
- 諸天善神 梵天・帝釈・日天・月天・天照大神・正八幡などの法華経を守護する諸天と善神のこと
- 妙一尼 日蓮聖人の女性信者で、熱心な法華経の信仰者。夫をはやくから亡くされ老母と幼い病児をかかえて苦労した。
信心というのは特別なことではないのですよ

グダグダ言わずとも、日蓮聖人は妙一尼さんのお気持ちをお察しになり、妙一尼さんは聖人の一言一言に味わい深いものを感じ取られたのでしょう。
だから「信心というのは特別なことではないのですよ!」
というお言葉をお聞きするだけで、妙法尼さんは身ぶるいするような感激を受けて、聖人の深いおさとしを受けることができたのです。
妻として夫と死別することほどツライことはありません。
また、そのような逆境にあればあるほど、子への愛情は強くなるものであります。
「おぼれそうになった時」にとっさにとったその行動は?

「信じる」とは言いますが、私たち凡人は身近な愛情の世界よりも強い思いを、法華経・お釈迦さまの世界に打ち込むことができるでしょうか。
救いを受けるためには、私たちのよほど強い思いがなければなりません。
おぼれそうになった時、どんなに強い力で仏さまの救いにすがるかを考えてみればよくわかるのです。
そのような強い「信」を法華経の世界の諸仏・諸尊に捧げるのが法華経の信心なのです
[aside type="normal"]- 諸仏・諸尊
法華経に示される仏さま・菩薩・諸天善神のこと
以前にもお話させていただきました、法華経の世界について、お釈迦さまが法華経をお説きになったとき、多宝如来は法華経が真実の教えであることを証明するために姿をあらわされました。
そしてお釈迦さまの分身である十方のあらゆる仏さまは、ほめ讃えるために集合され、そのほかの最高の教えを得ようと求める菩薩はいうまでもなく、位が高いとされる梵天・帝釈などや善神が法華経の説法の座に集められました。
こういう理由で、仏さま・菩薩。諸天などが末法の法華経を信じる人たちを護ってくれるのです。
[aside type="normal"]- 梵天・帝釈
梵天王は、もとは娑婆世界の主。帝釈天は忉利天(とうりてん)の三十三天の天主で、須弥山の山頂にある城に住んでいるといわれている。ともにお釈迦さまの真実の教えに帰依されて、法華経を弘める者を護っている。
ふだんの生活を振り返ってみて

さて、私たちのふだんの生活を振り返ってみますとどうでしょうか?
純粋に法華経を信じられているでしょうか。
法華経の精神のままに生きたいと願っても、凡人の悲しさでなかなか理想通りいかないものです。苦しいときには必死に祈り願うものですが、単調な日々が続くとついつい「信心」ということをおろそかにしがちです。
日蓮聖人は、「平凡は一時的には火が燃えたつように熱中するものだけれども、たいへん冷めやすいものだ。」とおっしゃっていらっしゃいます。
そして、「水のように静かだが、しかしいつも深くふかーく信仰を掘りさげて、人生のなかにつよく信仰を持続してゆくものでなければならない。」とお示しくださっておられます。
そのお言葉を、心に留めておきたいものです。
水のように静かだが、しかしいつも深くふかーく信仰を掘りさげて、人生のなかにつよく信仰を持続してゆくものでなければならない。
[/box]📢法徳寺では、毎月≪23日≫に、ご先祖さま・志される諸精霊のご供養のために、月施餓鬼を行っております。
[日時]毎月23日 19:00~20:30(変更がある場合があります)
[場所]法徳寺(上記アクセスを参照にしてください)
※お問い合わせは、下記≪お問合せボタン🔘≫を押してください。
以上、
「「信心」とはどういったものなのか?|子が母を慕うように」
でした。
お読みいただき有難うございました。