今回の記事の内容
■今回の記事はこんな人のために書いています
⇒自分だけの力によってなにかを得たつもりになりがちな方、また自分の力だけではどうにもならないと考えてしまいがちな方
■今回の記事を読むと分かること
⇒周りのひとやモノに《感謝の気持ち》を感じることができるようになります
自分の力ではどうにもできないことの方が多いです。
しかし、自分で行動を起こさなければ、何事も物事は動いていきませんし、道は開きません。
あくまでも、自分の意思で動いていくことが大切です。
それでは、どのようにすればよいでしょうか?
今回は、このことについて触れていきたいと思います。
この記事のもくじ
自分だけの力によってなにかを得た、もしくは得なければいけないと思うと疲れてしまいます
この世に生をうけて、自分のカラダで生活されているのですから、自分のだけの力だけしか知ることはできません。(正確には、量ることは自分でも難しいですが・・)
しかし、それでは時として自分のキャパを超えてしまうときがくるでしょう。
そこで、自分を助けてくれる人が出てきたり、自分から教えてもらうようにお願いして自分自身を成長させていくのです。
自分だけの力で大きくなったのではありません。
次に、日蓮聖人のお手紙『観心本尊抄(かんじんほんぞんしょう)』のお話をしていきたいと思います。
日常の生活で≪ついつい忘れてしまう大切なこと≫についてお話していきたいと思います。
前回も同じ、日蓮聖人のお手紙『観心本尊抄(かんじんほんぞんしょう)』をお読みして、≪仏さまは、あなたの心の中にいますよ≫というお話をさせていただきました。
[kanren postid="1055"]今回は、≪ついつい忘れてしまう大切なこと≫ということについてお伝えしていきたいと思います。
法徳寺では≪9日≫朝のおつとめのときに、お経を読んだ後、必ず日蓮聖人のお手紙を拝読させていただきます。
それが、今回ご紹介させていただく『観心本尊抄(かんじんほんぞんしょう)』です。
私たちは、とかくすると、謙虚に自分を見つめることを忘れてしまい、さも自分だけの力によってなにものかを得たつもりになりがちです。
自信を持つことは良いことなのですが、何事もほどほどが大切です。
このことについてどういう風に考えたらよいでしょうか?
観心本尊抄の原本と【意訳】
観心本尊抄にいわく
釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。
我等此(こ)の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与えたもう。
(文永10年 佐渡一谷にて 御年52歳 昭和定本遺文711ページ)
POINT『観心本尊抄』の【意訳】
お釈迦さまのご修行のすべてと、おさとりの功徳のすべては、妙法蓮華経というわずか5字のうちにそなえられている。
だから、凡人である私たちが、この妙法五字を信仰によって受けとり、それを私たちの心に受けたもってゆくなら、念受すれば、自然にお釈迦さまのご修行の功徳・おさとりの功徳を譲り与えられ、お釈迦さまと同体の仏となることができ、その救いのなかにつつまれるのである。
≪私が≫真剣にお経を読んだから、何事かが成就したと思っている段階では・・
お題目を≪私が≫なんべん唱えたからとか、≪私が≫真剣にお経を読んだから、何事かが成就したと思っている段階では、まだ真実に到達したことになりません。
私たち日本人が忘れかけている「授かる」という言葉を思い起こしてみましょう。
「授かる」ってどういうときに使われるでしょうか?
私は、
- 子どもを授かる
が、1番に思いつきました。
辞書で調べてみると、「神仏や目上の人などから、金では買えない大切なものを与えられる。」
などといった意味合いがあるようです。
神仏や目上の人などから、金では買えない大切なものを与えられること
[/box]私たちが動かそうとする身体も心もおのずから授かったものです。
私たちが何事かを成し遂げようとする熱意にも、私たちのご先祖さまから受け継いだ部分の方が多いのです。
私たちが努力をするということは、決して自分の力だけでなにかを成し遂げることだけでなく、与えられた条件と力とを結び合わせることにあるのです。
そのほんのわずかな心のはたらきを起こすかどうか、それが人生を大きくへだててしまうものなのです。
自分だけの力でできることには限界があります|仏教って実際は・・
私たちがお題目に私たちの救いをいただくということの背後には、徹底的な仏教の分析と解明とが横たわっています。
仏教って、「よく目に見えないものを信じないといけない」と思いがちですけど、じつは理屈のかたまりなのです。
お釈迦さまも、この娑婆世界に出現して「原因」と「結果」の関係である≪因果≫の関係性をお説きになられました。
その理屈のかたまりを理解していくことが、大切であるとは思います。
けれども、日蓮聖人は、私たちにその理論の究明をくり返すようにとは言われていません。
逆に、ただただ純真にお題目に私たちの救いが象徴されていること、ただただ心からお題目の救いを信じきることを指示してくださっています。
日蓮聖人は、妙法蓮華経の五字のうちに、お釈迦さまのすべてのご修行と、おさとりと救いのすべてが納められていることをお示しくださいました。
お釈迦さまは、想像することすらできない遠い遠い過去に「おさとり」を開いて「仏陀」となられましたが、実はその前にながいながいご修行をあそばされました。
「ジャータカ物語」で知られるご苦労は、そのごく一部にすぎません。ともかく、そのようなご修行のすべてがお題目に集約されているのです。
そしてまた、お釈迦さまの完全無欠な「おさとり」のすべてが、このお題目に込められているのです。
お題目をお唱えするとどうなるの?
そればかりか、このお題目の救いは、お釈迦さまの弟子の代表である本化上行菩薩が末法にあらわれて人びとにお示しになることが法華経に予言されており、事実、日蓮聖人が上行菩薩の応現としてその予言を現実のものとなさったのです。
お釈迦さまの救いは、不思議なことに、お釈迦さまと私たち凡人との同体の成仏なのです。
お題目を唱えることは、その成仏を授かることであり、確証させていただくことなのです。
[aside type="normal"]- 同体の成仏
一心にお題目を唱えてお釈迦さまの慈悲深いお救いを求めることによって、全宇宙に広がり永遠に流れるお釈迦さまの温かいお心に包まれるということ
📢法徳寺では、仏さまと同体になる成仏の功徳を授けていただくために、毎月≪18日≫にお題目修行を行っております。
[日時]毎月18日 19:00~20:00
[場所]法徳寺(上記アクセスを参照にしてください)
※お問合せは、下記≪お問合せボタン🔘≫を押してください。
以上、
「自分だけの力によってなにかを得たつもりになりがちなあなたへ―|お題目に私たちの救いあり」
でした。
お読みいただき有難うございました。
《自分の人生は自分で切り開くもの》とよくいわれますが、自分だけの力ではどうしよもないときって当然あるかと思います。
またうまくいっているときも、思い違いをしていていたら足元をすくわれてしまうかもしれません。