今回は、日蓮聖人のお手紙『随自意御書(ずいじいごしょ)』というお手紙のお話をしていきたいと思います。
何事も≪素直な気持ち≫が大切ですよね~
前回は、日蓮聖人のお手紙『妙一尼御前御返事(みょういちあまごぜんごへんじ)』というお手紙を読み、≪信心とは特別ではない≫ということについてお話させていただきました。
[kanren postid="1035"]さて、今回は≪素直な気持ちが大切≫だということについてお話させていただきたいと思います。
法徳寺の朝のおつとめのとき、お経を読んで、日蓮聖人のお手紙をお読みします。
毎月≪7日≫にお読みしている日蓮聖人のお手紙。
それが今回、紹介させていただく『随自意御書(ずいじいごしょ)』です。
日蓮聖人は、「仏は正直を本とす」と示されています。
本と書いて、「もと」と読みます。
仏教用語は、難しいですね。。
これは一体どういうことでしょうか?
[aside type="normal"]- 仏は正直を本とする
お釈迦さまの教えはまじりけのない真実の法であるということ
この記事のもくじ
随自意御書の原文と【意訳】
随自意御書にいわく
法華経と申すは随自意と申して仏の御心(みこころ)をとかせ給う。
仏の御心はよき心なるゆえに、たとい、しらざる人も此(こ)の経をよみたてまつれば利益はかりなし。
麻の中のよもぎ・つつ(筒)の中のくちなわ(蛇)・よき人にむつぶ(睦)もの、なにとなけれども心もふるまい(振舞)も言(ことば)も、なお(直)しくなるなり。
法華経もかくのごとし。
なにとなけれどもこの経を信じむる人をば仏のよき物とおぼすなり。
(弘安元年 身延にて 御年57歳 昭和定本遺文1611ページ)
POINT随自意御書の【意訳】
法華経というお経は、「お釈迦さまのみ心のままに随(したが)う」という意味で説かれたもので、教主釈尊の「み心」そのものをお説きになられたのである。
お釈迦さまの「み心」は、気高く尊い心であるから、たとえその教えの深さをわきまえぬ人であっても、この法華経を拝読すれば、その功徳ははかりしれないほどである。
よもぎもまっすぐになるように賢い人と親しくしていると、なんとなく心持ちも行動も言葉も、ゆがみなくまっすぐになるものだ。法華経もそれと同じなのである。
[aside type="normal"]- 教主釈尊の「み心」
あるときは主のように衆生(私たち)を守り、あるときは師のごとく教え導き、あるときは親のごとく慈愛するお釈迦さまのいつくしみ深いお心のこと
大きなはたらきを生む小さなこと
この世界をふりかえってみると、単純なものがただ単純にあるのではなく、複雑なものがいたずらに複雑なものとして存在しているのではありません。
精密な機械もそれがばらばらであるのならば大きなはたらきとなりません。一つ一つの部分が、大きなひとつの働きとして集合されたときに大きなはたらきとなるものです。
私たち1人ひとりの心身も同じであるのです。
クルマは約3万点の部品からなっているといわれています。
そのひとつひとつは小さな部品かもしれませんが、全部そろわないと≪クルマ≫としては機能してくれません。
それと同じことが、私たち人間にもいえます。
大切なことは体験し、感じること
日蓮聖人がお題目の信仰をすすめられ、生命をかけて弘められたのは、仏教の教えを複雑なものとして解釈していたのでは、凡人はかえってその神髄に到達することができないためです。
ただ知識で知るのではなく、全身全霊によってお釈迦さまの教え、法華経の救いを受けることができるのです。
法華経は、ただただ単純にお経を読んだり、お坊さんの法話を聞いたりしていてもピンと来ないときは来ないのです。
ある日、突然、自分の中に「ストン」と来るときが来るのです。
そのときが来るまで、少しでもお釈迦さま・法華経と≪ご縁≫を結ばれることをお祈りしております。
[box class="blue_box" title="お釈迦さまの教え・法華経の救いを受けるために"]ただ知識で知るのではなく、体験し、感じることが大切
[/box]📢法徳寺では、よりお釈迦さま・法華経を身近に感じてもらえるように、≪甲子(きのえね)≫の日(60日に1度)に、魔訶加羅福寿大黒尊天のおまつりを行っております。
[日時]甲子の日(60日に1度)
[場所]法徳寺(上記アクセスを参照してください)
※お問い合わせは、下記≪お問合せボタン🔘≫を押してください。
以上、
「仏さまのみ心のままに随いましょう|大きなはたらきを生む小さなこと」
でした。
お読みいただき有難うございました!!