今回は、日蓮聖人のお手紙『法華取要抄(ほっけしゅようしょう)』というお手紙のお話をしていきたいと思います。
誰もがお釈迦さまの大切な子どもなのです。
法徳寺の朝のおつとめの際、お経を読んで、日蓮聖人のお手紙をお読みします。
毎月≪1日≫にお読みしている日蓮聖人のお手紙。
それがこの『法華取要抄』なんですね。
この記事のもくじ
法華取要抄の原文とその意訳
法華取要抄にいわく
この土の我等衆生(しゅじょう)は五百塵点劫(ごひゃくじんでんごう)よりこのかた、教主釈尊(しゃくそん)の愛子なり。
不孝の失によって今に覚知せずといえども、他方の衆生には似るべからず。
有縁の仏と結縁(けちえん)の衆生とは、たとえば天月の清水に浮かぶがごとし。
(文永11年 身延にて 御年53歳 昭和定本遺文812ページ)
POINT法華取要抄の【意訳】
この娑婆世界に生をうけた私たち生きとし生けるものは法華経の如来寿量品に明らかにされているように、五百塵点劫という昔から、ずっと教主釈尊にだいじに見守り続けられてきた愛子なのである。
ただ、私たちは、不孝を犯したために今日にいたるまで、釈尊の広大な慈悲を認識できなかったけれどもその広大な慈悲につつまれているありがたさは、他方の世界の人びととは比べ物にならないのである。
私たちの住む娑婆世界にゆかりの深い教主釈尊と、その自愛によって仏道に導かれた私たちとは、ちょうど天に浮かぶ月とその月影が清らかな水に浮かんでいるという関係にあるようなもの。私たちは釈尊の慈愛と導きによって生かされているのである。
仏教を信じるためには何が必要なのでしょうか?
仏教を信心する。
というと今のおばあちゃん、おじいちゃんがそうだと思います。
いま、お仕事をされていたり、学校でお忙しい方は、なかなか≪信仰≫することが難しいです。
もしかしたら、≪信仰≫は目に見えないものなので、なかなか信じることができないかもしれません。
≪忙しい≫とは、「心」を「亡(な)くす」と書きます。
人は、忙しいばかりだと心をなくすばかりです。
仏教を本当に信じるには、仏教を説かれたお釈迦さまを根本とすることを忘れてはなりません。
それ以外の仏さまはすべてお釈迦さまの教えによって仏さまになられたのです。
お釈迦さま以外の仏さまはみんな、お釈迦さまの分身の存在でしかありません。
仏さまはお月さま、私たちは?
日蓮聖人は『法華取要抄』のお手紙の中で、お釈迦さまは天空にあるお月さまに譬えられ、お釈迦さまに大事に見守られている私たち凡夫は、月の影をうつす澄んだ水のようなものなのだと書かれています。
私たちの住んでいる世界は何というでしょうか?
それだからこそ、日蓮聖人は、私たちの住むこの世界を苦しみを耐え忍んでいくところだということを明らかになさいました。
それが娑婆(忍苦の世界)という意味です。
[box class="blue_box" title="私たちの住んでいる世界"]私たちの住んでいる世界=娑婆世界
娑婆世界・・・忍苦の世界
[/box]実は有難いことなんです
お釈迦さまは今から3,000年前にたまたまインドにお生まれになったのではありません。
久遠という言葉で明らかにされる永遠の昔から、苦に悩む私たちを仏道に目覚めさせ、真実の世界にひき入れようと救いの手を差し伸べてくださっているのです。
その差し伸ばしてくださっている手を握るかどうかは、≪あなた≫次第です。
右手が仏さま。左手が私たち。
その手を合わせると、合掌になります。
忙しい毎日で、ついついなくしてしまいがちな心をたまには、
ホッととくするお寺にお参りしませんか?
少し早い時間ですが、毎朝6時半より朝のお勤めをしております。
法華経というお経を読んで、今回お話させていただいたような日蓮聖人のお手紙を拝読。
お題目をお唱えしております。
誰でもお参りできるので、気になった方は、法徳寺までご連絡いただくか、足を運んでください。
以上、
「仏教を本当に信じるには・・|仏さまの子どもだという自覚」
でした。
お読みいただき有難うございました。
次回は『妙法尼御前御返事』の≪「死」をみつめて生きてみませんか?≫についてです。
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